私なんかが書いてもいいものなのか、今もまだ、分からないけれど、今回は、私自身の気持ちの整理をするために書きます。
でも、そっと、あなたに届いたらいいな、なんて思いも込めて、書きます。
今日も、私は自分の気持ちを優先してしまう。ごめんね。どうか、許してね。
あなたが行ってしまう、数日前に、
「空白の時間には必ず慣れる。人間ってそういうもの。それぞれの日常生活を送っているうちに、いつの間にか。ちょっと視界に入ってるくらいの方が気楽。」
こんな言葉(※意訳しています)を目にしました。
この言葉の奥に、どんな意味が、どんな思いが込められていたのか、私には、分かりません。
どんな心持ちであなたを見送って、あなたの帰りを待つのかは、個人の自由だと思う。
あなたがいない時間を過剰に寂しがることないよ、って、そんな意味が込められている言葉なのかもしれない、とも思う。
だけど、この言葉に、そうだね、そうだよね、と、私はどうしても、思えなかった。
疑問に思ってしまったんです。
あなたがいない空白の時間に『慣れる』こと、これからあなたが過ごす時間を自分の視界の隅に入れてあなたの帰りを『気楽』に待つこと、本当にそんなことができるのかな?
慣れてしまっていいのかな?
視界の隅に捉えて気楽に待ってしまってもいいものなのかな?
あなたが行く場所は、あなたが行かなければならない場所は、見方によれば、当たり前に行く場所なのかもしれない。
あなたがいない空白の時間は、見方によれば、当たり前にやってくる時間で、時間が経てば、当たり前に、あなたは帰ってくるのかもしれない。
その場所、その時間で、得られるものの中には、あなたにとって、プラスになるものも、あるのかもしれない。
でもその、当たり前とされている場所や時間を、別の角度から見れば、そこであなたを取り巻くものは、儚い現実、しか、ないのでは、と思うんです。
儚い現実から、得られるものって、何なんだろう。
私が日常生活を送っている間に、手の中に握られるものも、瞳の中に映るものも、儚い現実である場所と時間の中で、あなたは過ごしているのかと思うと、過ごさなければならないのかと思うと、とてもじゃないけど、そんな日々に慣れることも、気楽に構えることも、私には、できません。
その愛おしい手の中に、本当は、そんなもの握ってほしくなんかない。
その愛おしい瞳の中に、本当は、そんなもの映してほしくなんかない。
あなたが握らなくてもいいように、あなたが映さなくてもいいように、消し去ってしまいたい。
いくらそう思い、願っても、私ひとりが思って願ったところで、どうしたって何したって、儚い現実は、消えない。私やあなたが生きてる間には、微動だにしないかもしれない。
あなたにとっても、私にとっても、大切なあの人が、その場所に行く時、私は、
「どうしたって何したって微動だにしない儚い現実があるから泣くんじゃなくて、儚い現実を突き付けられて逃げ道がないから泣くんじゃなくて、あなたが美しいから泣くんだと、そう思いたい。」
こう、言いました。
でも、今は、儚い現実が、憎くて仕方ない。
あなたが見せてくれる世界は、いつも、希望に繋がっていたから。
あなた自身が、いつも、私の希望だったから。
「希望溢れる時間」を止めて、犠牲にして、あなたが、儚い現実の中を生きなければならないことが、悲しくて、寂しくて、苦しくて、泣いてしまう。
どうしたって、悲しくて、寂しくて、苦しくて、泣いてしまう。
でも、きっと、あなたは、私が泣くことを望んでいるわけではないだろうから。
あなたがいない空白の時間に『慣れる』道の上ではなくて、
これからあなたが過ごす時間を自分の視界の隅に入れてあなたの帰りを『気楽』に待つ道の上ではなくて、
何も変わらないかもしれないし、何も動かないかもしれないけれど、
『当たり前』こそ、本当に『当たり前』なのか、『当たり前』であって良いのだろうかと、見つめ続ける、そんな道の上で、あなたの帰りを待ちたいと思います。
どうか、私が、あなたを愛する人たちが、あなたの愛する人たちが、あなたに"おかえりなさい"を言う日まで、あなたがいつも心身共に健康でありますように。元気に過ごしてね。温かく過ごしてね。
あなたが帰ってきた時に、次あなたに会う時に、あなたの両手に握られているものが、あなたの瞳に映るものが、愛と希望でありますように。
気をつけて、行ってらっしゃい。
いつまでもずっと大好きだよ、ホビさん。
당신에게 사랑을 보냅니다
보라해